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一歩踏み出す度に、コツ、と硬質な音が鳴る。
居城を土足で歩くことに、慣れぬと言えば主は「そう」と言って笑った。
聞けば、他の本丸は我等がよく知る姿をしていることが多いらしい。
純白の床。純白の、完璧に整えられた町。
見慣れぬ形の城だけでなく、城下の様子も随分と風変わりな此処へ呼ばれて来た当初は、
妖に化かされたのではと疑いすらもしたものだ。
「兄者ーっ、兄者は居らんか」
尤も、今尚その疑いが晴れたわけではない。
主は自らを死人であると明言したし、「執事」なる少年も何処となく、妖に似た気配がするのだ。
その本丸で、彼が今力を貸しているのは、
彼の兄が既に此処に居り、主と妙に親しげだったからに過ぎない。
少なくとも、当初はそうだった。
兄を呼びながら城内を当所なく歩いていると、不意に吐息のような声が聞こえた。
見れば僅かに開いた扉から、深紅の瞳が自分を見返している。
「……主か。兄者を見ておらんか」
「居るわ。だから、少し静かにして頂戴」
声を潜めて答えた少女が、扉を開けるよう促す。
無数の本に囲まれた部屋は、そういえば、自由に用いて良いと聞いた。しかし今見回してみると、見慣れない装丁が多い。
恐らくはその殆どが、国外の言葉で綴られたものなのだろう。
細い腕で車椅子の車輪を動かし、彼女は器用に進路を変える。
その先、部屋の中央に据えられた柔らかそうな長椅子の上に、捜していた兄の姿があった。
「刀も、夢を見るのかしら」
「夢?」
「……先程、呼ばれたから」
夢。夢など見た覚えがあっただろうか。
呼吸の音すらも聞こえない兄の寝顔を見ながらぼんやりと思い巡らせていると、「御免なさいね」と彼女は続けた。
意図が分からず、首を傾げる。
「……失礼。気に障ったのかと思って」
「いや。……ああ、そうだな。兄者は随分貴女の話をする」
「ワタシには貴方の話をするわ。どの名で貴方を呼ぶべきかは、決めかねているようだけれど」
「……忘れているのだろう」
どうかしら、と結論を濁したのは、恐らく心遣いなのだろう。
誰の目にも明らかなほど、兄は彼女の名を口にする。
喜ばしげに、愛おしげにそして、幾らか寂しげに。彼女も知っているのだろう。
「兄者は、貴女をとても慕わしく思っているのだな」
「そうねえ……貴方が仰るなら、そうなのかしら?」
「俺が? 何故」
「貴方以上の、彼の理解者はいないでしょう?」
間髪入れずに返された答えは、まるで自明の事を言うかのような妙な自信に満ちていて、
自分でも、僅かに気が緩むのを感じる。
引き締めねば、と口元に力を入れると、しかし其れも、些細な誤解に繋がってしまったようだ。
「いや。貴方が刀剣たちに、慕われる謂れはよく分かるのだ」
誤解を与えて済まないと、今度は此方が頭を下げる。
兄が此れほど彼女に執着しているようでなかったなら、自分もその輪に混ざってしまっていただろう。
そして其れは、ひどく心地が良いのだろう。
「貴方がそう、仰ってくださるのは嬉しいわ。有難う、薄……」
「……あ、主…?」
よもや主まで、俺の名を忘れたのではあるまいな。
引き攣った声で彼女の様子を覗うと、「いえ、」と一拍、間を埋める。
「薄緑で良かったかしら? 膝丸か、他の名の方が貴方のお好み?」
「いや、どちらでも良い。其の、どれもが俺の名だ。……貴女は、その名を気に入ってくれたのだな」
忘れられていたわけではなかった、そのためか、
あるいは、「薄緑」の名を思い入れてくれている、そのことへの喜びゆえか、
自然と声音が柔らかになる。
「ええ、美しいでしょう?」
その言葉に、少女然と輝かせた瞳に喜ばしいと思えども、
自分の名が美しいのかどうか―――「貴方に、よく似合っている」のかどうか、自身では判断付かないものだ。
―――否、彼女の言うことに、間違いなどは無いのだろう。
心から、素直に、そう口にしたのが分かったからこそ、頭に上る熱を隠すように、努めて冷静に矛先を変える。
「俺は、貴女の名も美しいと思うが」
兄がよく口にする、「卯の花」という彼女の呼称。
髪の色に、肌の色に、彼女が好んで纏う着物の色にも相応しく、そして
小さく可憐な花が集まり豪奢な装いを見せる春の花は、出逢って間もない此の目にも、彼女に似合うように見える。
「私の? ……あぁ、そうね。空木の花とは言い得てる。あれは名前ではないけれど」
「そうなのか? では、名は……」
「知りたいの?」
見上げる瞳に、体が強張る。
意識して合わせないようにしていた視線が絡み合うと、案の定、外せなくなった。
『おひいさまの顔を、まじまじと見るのはお勧めしないよ』―――此処に、来たばかりの頃、そう言っていたのは一振ではない。
無礼だから? 違う。違う、と、彼らは皆、言葉を揃えて返すのだ。
『引き摺り込まれてしまうから』
なんと不穏な表現だろう。しかし今、奈落に突き落とされたような感覚がした今であれば、
彼らの言葉を理解できる。そして自分も言うだろう。
―――兄者。
貴方は恐らく疾うに、其の最奥に居るのだな。
「薄緑?」
「ああ、…いや、済まない。不躾だった」
「構わないわ」
それほど長い時では無かったのだろう。
現へと引き戻された感覚に小さく息を吐くと、彼女は喉を鳴らして笑った。
「気にすることないのに」―――許されたことへの、安堵と受け取ったのだろう。
「……しかし、兄者は随分深く眠っているのだな」
「そのようね。疲れていたのかしら。薬研に相談してみるわ」
「済まない。兄者に代わって礼を言おう」
「気にしないで」
ワタシには、その程度しか出来ないから。
寂しげな声音に目を瞠ると、取り繕うように彼女は笑う。
「もし良ければ……伝えておいていただける? 後程相談があるって」
「ああ、分かった」
言うが早いか、彼はひどく彼らしい、きっちりとした足取りで踵を返す。
軽い挨拶すらも忘れぬ其の姿を見送って、彼女は長椅子に向き直る。
「お早うと、言って差し上げたらいいのに」
「うーん、君と話をしてみたがっていたからね」
「お優しいお兄様だこと。存知なかったわ」
「僕も、君があんなに優しい言葉で話すなんて知らなかったよ」
身を起こし、片腕を伸ばす。
結構、という彼女の言葉を遮るように、車椅子の肘掛を掴んで自分に寄せた。
「“薄緑”は、気に入った?」
「ええ、気に入っているわ。ワタシを選んでくれた刀は、どれも」
「へえ」
喉元まで込み上げた言葉を飲み込み、目を細める。
疑っているように見えたのだろう、一段と不愉快そうな視線に、笑い声が零れた。
君は何と、答えて呉れるだろう。
どんな顔で、僕を見るだろう。
もし、『僕も?』と訊いたなら。
「ごめんごめん、別に疑ってはいないよ。弟も言っていたけれど、君は刀によく慕われているし」
「そんなに早くから聞いていたの?」
「あんな何度も大声で呼ばれたら、流石に目も覚めるって」
其れはそうねと、肩を竦める。若干の間が空いたのは、誤魔化しを悟られたからだ。
訊いてくれたら、答えられるのに。
―――言ってくれたら、応えられるのに。
「ねえ、」
「ん?」
貴方の求めているものは何。
尋ねても、きっとはぐらかされるから。
「お疲れなら、部隊を考えていただくけれど?」
「いやいや、大丈夫だよ。本を読んでいたらつい、眠ってしまっただけだから」
「そう」
本なんて無かったじゃないの、と。
当然思う事くらい、彼も分かっているのだろう。
分かっていて吐く、其の嘘に、
何と応えて欲しいのだろう。
「では、もう一つ教えてくださる?」
「うん。べつに幾つでも構わないよ」
「刀の貴方も、夢を見るの?」
「夢?」
けれど、「どうして」と問われて、
「いいえ。ふと気になっただけ」
息を継ぐように嘘を吐く、自分も彼と変わらない。
だから、
「うーん……見ていたかなあ。忘れてしまったよ」
「そう」
返答の真偽も、分からないままなのだろう。
立ち上がり、背凭れの後ろに回られると、表情すらも見えなくなった。
「でももし、夢を見るのなら」
ゆっくりと、車輪が回り出す。
「君に笑ってほしいと思うよ」
「……それは、まるで、」
現のワタシが、笑わないみたい。
そう言って、彼女は作り物めいた笑顔を見せる。
彼女が心から笑ったところを、最後に見たのはいつだったかな。
長い記憶を手繰り寄せる。
溢してしまったように、不図。
何か見つかってしまったと、言わんばかりに、恥ずかしげに。
忘れる筈もない事なのに、思い出せないのは何故だろう。
「うーん。そうだ。ねえ、卯の花」
一度でも、向けられてみれば、
「此間、えーっと誰だったかな。……弟? 他にも誰かいたような……まあ、誰だったかは度忘れしたけど、バレンタインとかいう祭りの話を聞いたんだ」
「貴方は祝祭の名称よりも、薄緑の名を一つくらい好い加減覚えて差し上げたら如何。……其れで? 貴方もチョコレートがお望みなの?」
「チョコレート?」
「近年の我が国では、そういう風習があるそうよ。加州清光に頼まれたついで、ご所望ならば差し上げるけれど?」
「うーん。ついではいいかな。それより卯の花、君、花は好きだろう?」
「ええ」
「どの花が、一番?」
忘れずに、いられるのだろうか。
「何でも。何でも、好きなのよ。だから、“ワタシは花が好き”だと言うの」
「嫌いなものは?」
「特にないわ」
「僕も?」
「好きよ?」
―――やっぱり、どうでもいいんだね。
ありがとう、と口にして、嬉しいよ、と嘯いて、
重苦しい感情を、忘却という名の屑篭の中に放り投げる。
ほんの一瞬、見え隠れした“中身”の影に、
随分沢山、入るものだと感心した。
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